凍った滝を見に、六甲の谷へ。~有馬・氷瀑ハイキング~

トレッキング

どうも、オトンです。

今回は六甲有馬。目的はただ一つ、氷瀑(ひょうばく)。凍った滝を見にいくいう、なかなかニッチな趣味の日帰りプチ登山(トレッキング)や。

「凍った滝、見たない?」の一言から

事の発端は単純で、「この時期の六甲、氷瀑が見れるらしいで」って情報を仕入れてしもうたことや。普段のキャンプとはまたベクトルの違う「寒さを見にいく」いう行為、冷静に考えたら変わっとる。せやけど一度気になったら止まらんのがオトンの性分や。

孔子は「これを知る者はこれを好む者に如かず、これを好む者はこれを楽しむ者に如かず」って言うたらしい。知識として「氷瀑があるらしい」で終わらせず、好きになり、楽しむ域まで行こうとするワシは、なかなか孔子イズムを地でいっとると自負しとる。まあただの寒がりの物好きとも言うけどな。

まずは、雪化粧した杉林から

登山口から歩き始めてすぐ、目に飛び込んできたのがこの光景や。

見上げるほど高い杉の木々に、うっすら雪が積もっとる。まっすぐ天を突く杉と、白い雪のコントラストがなんとも清々しい。都会でスーツ着て満員電車に揺られとる時間からは想像もつかん静けさや。「森を見て木を見ず」ということわざがあるけど、この日のワシは完全に木を見て森も見て、両方堪能しとった。欲張りやな。

谷の奥、凍りついた滝との遭遇

歩みを進めるうちに、いよいよ本命の氷瀑エリアに入ってきた。

岩肌にびっしり張り付いた氷柱(つらら)の群れ。本来なら水がサラサラ流れとるはずの滝が、時間ごとピタッと止まったみたいに凍りついとる。まるで自然が「一時停止」ボタンを押したみたいや。

もっと近づいてみたら、これがまたすごかった。

氷柱の一本一本が、まるで水晶みたいに透明感があって、太陽の光をちょっとずつ反射しとる。デカルトは「我思う、故に我あり」言うたけど、この氷瀑の前ではワシは「我固まる、故に我あり」やった。寒さで思考回路も一瞬フリーズしたわ。

自然の彫刻家いうのは、雨風だけやなくて、寒さも道具にしとるんやなと妙に感心してもうた。何日もかけて水が滴り、凍り、また滴り、凍りを繰り返して、この造形になる。急いで作ったもんは、こういう迫力は出せへんのやろうな。

雪の谷を進む、地道な道のり

氷瀑を堪能した後も、まだ道は続く。雪に覆われた谷を、慎重に足元確認しながら進んでいく。

写真の奥に小さく見える登山者の姿が、この谷のスケール感を物語っとる。決して危険な険しさやないけど、油断は禁物。雪山いうのはいつも、涼しい顔して足元を狙ってくるからな。過去、雪山で膝を崩壊させた苦い記憶が蘇るわ(あの十石山の教訓、忘れてへんで)。

孟子の「天将に大任を是の人に降さんとするや」いう言葉があるけど、この日の「大任」はただ滑らずに歩くことやった。大した任やないようで、雪道ではこれが一番重要な任務なんや。

樹氷という名の芸術品

歩いとる途中、木々に目をやると、これがまた美しかった。

緑の葉っぱに、白い雪がふわっと乗っかっとる。葉が緑を保ったまま雪をまとっとるいうのは、なんや不思議な生命力を感じる光景や。冬でも枯れきらん強さいうもんを、植物から見せられた気分やった。

さらに進むと、今度はこんな景色に出会った。

これはもう雪いうより「霧氷(むひょう)」やな。枝という枝に細かい氷の結晶がびっしりついて、木全体がまるでガラス細工みたいに真っ白になっとる。風が吹くたびキラキラ光って、正直、目的の氷瀑よりこっちの方に見とれてもうた瞬間もあったわ。内緒やけどな。

寒さの先にあったもの

正直、氷瀑を見にいくいう行為は、傍から見たら「わざわざ寒いとこに何しに行くねん」って思われるかもしれん。せやけど実際歩いてみると、寒さの中にしかない景色いうもんがちゃんとある。凍った滝、雪化粧した杉林、霧氷で真っ白になった枝。どれも夏には絶対拝めん景色や。

ニーチェは「己の獣性を制御した者だけが、精神の自由を得る」って言うたらしいけど、この日のワシは寒さに対する自分の弱さをちょっとだけ制御できた気がする。震えながらも足を止めんかった、そのことだけは自分を褒めてやりたいわ。

六甲有馬、キャンプとはまた違う魅力がぎっしり詰まった一日やった。次の冬もまた、凍った景色を探しに行こうと思う。

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