古代中国の思想家、老子は「無為自然」を説いたらしい。何もせず、自然の流れに任せるのが最上や、という考え方や。せやけど、その老子先生に一度この夜の光景を見せてみたい。滋賀県は朽木、夜の闇の中で繰り広げられとった魚の炙り焼きは、「無為」どころか、炎と人間の意志が全力でぶつかり合う攻防戦やったからな。
ワシは基本、猫である。夜の焚き火、パチパチと爆ぜる音、そして肉と魚の焼ける匂い。この3つが揃った瞬間、ワシの中の狩猟本能がゾワッと目を覚ます。今回はその現場を、しっかり見届けさせてもらったで。
深夜の闇に浮かぶ、赤々とした炎
真っ暗な中、焚き火の炎だけがオレンジ色に浮かび上がっとる。周りには人の足元がぼんやり見えるくらいで、あとはもう漆黒の世界。こういう「暗闇の中で炎だけが主役」いう構図、なんや妙に人間の原始的な部分を刺激するらしいな。文明が発達しようが、電気がどれだけ普及しようが、人間は結局、炎の周りに集まりたがる生き物なんやと思う。
古代ローマの哲学者セネカは「炎を見つめる者は、心を鎮める」と言うたとか言わんとか(毎度のことながら、これもワシの記憶が正しいかは怪しい。話半分で聞いてほしい)。とにかく、この夜の焚き火にはそれくらいの説得力があった。
主役登場、炎に炙られる魚たち

そしてこれが、この夜の主役や。網の上に横たわった2匹の魚、炎に照らされて皮の焼け具合がテラテラと光っとる。片側はすでにこんがり焼き色がついとって、身の赤みもちらっと覗いとる。この「焼けていく過程」いうんが、実はキャンプ料理の一番のご馳走なんやとワシは睨んどる。出来上がったもんを食うだけやったら、ただの食事や。せやけど、炎に炙られていく過程をじっくり眺める時間まで含めて、これは「体験」なんやろな。
古代ギリシャの哲学者は「過程こそが目的である」的なことを言うたらしい(この人が誰かはもうワシもよう分からんくなってきたが、雰囲気だけでも受け取ってほしい)。焼き上がりを待つあの時間、あれこそがキャンプ飯の醍醐味なんかもしれん。
炎の勢い、ここにきて全開

そしてこっちの写真、炎の勢いがさっきよりさらに増しとる。オレンジ色の炎が高々と立ち上って、網の上のものを豪快に炙っとる。ちょっと目を離した隙にこの勢いになっとったんちゃうかと勘繰ってしまうくらいの火力や。
薪をくべるタイミング、火加減の調整、これは完全に「人間の腕の見せ所」の領域や。ワシがどれだけ炎を見つめても、火加減はコントロールできん。せやからこそ、この「人間が炎を制御しようと格闘しとる姿」いうんは、見ていて飽きんもんがある。近くには人の足元も写り込んどって、みんなでこの炎を囲んで、あーだこーだ言うとる様子が目に浮かぶようやった。
まとめ:炎と魚と、夜の朽木
暗闇の中の焚き火、炙られていく魚、そして時折勢いを増す炎。滋賀県朽木でのこの夜は、シンプルながらも、人間の根源的な楽しみが詰まった時間やったんちゃうかと思う。
「文明とは、火を囲む知恵の集積である」――誰が言うたかはもう完全に忘れたし、というか本当に誰かが言うたんかも怪しいもんやが、少なくともこの夜の朽木では、その言葉がしっくりくる光景が広がっとったわ。
ワシはといえば、炎のそばで丸くなるんは大好きやけど、焼けた魚を横目で見つめながら「くれへんのか」とジリジリしとった、いうのが正直なとこや。次はワシの分も、ちゃんと取り分けといてほしいもんやで。


コメント