どうも、オトンです。
今回は滋賀県朽木(くつき)。京都からもそこそこ近い、川と山に囲まれたエリアや。ソロで焚き火を眺めながら、鍋一つで完結する夜を過ごしてきた。
「朽木」いう地名の重み
まず行く前から気になっとったんが、この地名や。「朽木」って、木が朽ちるって書く。なかなか物騒な字面やないか。せやけど調べてみたら、これは古くからこの地を治めとった朽木氏に由来する由緒正しい地名らしい。字面だけで判断したらあかんっちゅう教訓を、現地に着く前から一つ学んだ気分やった。
孔子は「其の言を聴きて其の行いを観る」って言うたらしいけど、地名も同じや。文字面だけやのうて、実際その土地に立って初めて分かることがある。朽木は、木が朽ちるどころか、川の水は澄んどるし、山の緑も生き生きしとった。名は体を表さん、ということもあるんやな。
焚き火の前で、ただ座る
日が暮れて、焚き火に火を入れる。パチパチと薪が爆ぜる音、オレンジ色の炎が暗闇に浮かび上がる瞬間、これがソロキャンプの一番の醍醐味やと思う。
火を熾すいう作業は、慣れてきても毎回ちょっと緊張する。薪の組み方、風向き、着火のタイミング。ちょっとでも油断したら煙ばっかりで火がつかん。フランスの科学者ラヴォアジエは「何も生まれず、何も消えない。すべては変化するだけだ」って言うたらしいけど、焚き火はまさにその体現や。木という固体が、炎という光と熱に姿を変えて、最後は灰になる。この変化を、ただじっと眺める時間。何をするでもない、ただ火を見る。これが驚くほど心を整えてくれる。
鍋一つの贅沢
焚き火の隣で仕込んだんが、野菜たっぷりの鍋や。白菜、ネギ、キムチ風の薬味を放り込んで、コトコト煮込む。湯気がもうもうと立ち上って、焚き火の煙と混ざり合う光景は、キャンプでしか見られん独特の景色や。
一人分の鍋いうのは、豪華さでは負けるかもしれんけど、自由さでは圧勝しとる。味付けも量も全部自分の気分次第。誰にも気を遣わず、好きなタイミングで蓋を開けて、好きなだけ食う。老子の「足るを知る者は富む」やないけど、この鍋一つで十分満たされる感覚、これがソロキャンプの財産やと思う。
冷えた夜気の中で、熱々の鍋をすすると、体の芯からじんわり温まる。焚き火の熱と、鍋の熱と、両方から挟み撃ちにされて、寒さなんてどこかに吹っ飛んでいく。
静けさの中で見つけたもの
朽木の夜は、とにかく静かやった。川のせせらぎと、焚き火の爆ぜる音と、鍋がグツグツ言う音。それ以外は何も聞こえん。都会の喧騒から離れて、こういう「音のない豊かさ」に浸れる時間いうのは、探してでも作る価値がある。
デカルトは「我思う、故に我あり」って言うたけど、焚き火の前におった時のワシは、ほとんど何も考えとらんかった。考えんでもええ時間、それこそがこの旅で一番欲しかったもんやったんかもしれん。
朽木、また来よう。次はもうちょっと長く滞在して、この静けさをたっぷり味わい尽くしたいもんやな。


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