朽木どんだけ好きやねん。~オトンの謎の執着を分析する~

キャンプ

まいど、ワシや。

今回は旅の記録やのうて、ちょっとした告発文や。告発する相手はオトン。告発内容は、朽木への異常な執着についてや。

またお前か、朽木

気づいたらオトン、しょっちゅう朽木行っとる。ソロキャンプいうたら朽木、車中泊いうたら朽木、寒い日も暑い日も、なんやかんや理由つけて朽木。もはや別荘か何かと勘違いしとるんちゃうかと本気で疑うレベルや。

孔子は「これを知る者はこれを好む者に如かず、これを好む者はこれを楽しむ者に如かず」って言うたらしいけど、オトンの場合はもう「楽しむ」を通り越して「執着する」の領域に足を踏み入れとる気がする。段階が一個先に進みすぎや。

なんで朽木なんか、ワシなりに考えてみた

正直、オトンに直接聞いたら「静かでええから」とか「川があるから」とか、そこそこまともな答えが返ってくるとは思う。せやけどワシは猫やから、もっと猫目線で分析してみる。

仮説1:単純に近い。 大阪からのアクセスの良さ、これが一番大きい理由な気がする。老子は「千里の行も足下に始まる」って言うたけど、朽木の場合は足下どころか、車でひとっ走りで着いてしまう。手軽さは正義や。

仮説2:焚き火と鍋が最強コンビだから。 朽木行くたびに、大体こういう写真を撮っとる。焚き火の炎、その上でグツグツ煮える鍋。もう様式美の域や。孟子が見たら「これは執着やのうて様式美である」って擁護してくれるかもしれん。多分せえへんけど。

仮説3:単に飽きっぽくないだけ。 新しい場所を開拓するんも好きなくせに、結局朽木に戻ってくる。これはもう「浮気して反省して元サヤに戻る」いう人間関係のパターンと似とる気がする。朽木、オトンにとっての本命なんやろな。

執着、それは悪いことなんか

正直、ここまで書いといてなんやけど、ワシは別にオトンの朽木愛を否定するつもりはない。エピクロスは「快楽とは苦痛の欠如である」って言うたけど、朽木でこうやって鍋つついとる時のオトン、確かに苦痛からは程遠い顔しとる。それでええんちゃうか。

人間、いや猫も、心底落ち着ける場所が一個あるいうんは、幸せなことやと思う。オトンにとってそれが朽木なんやったら、ワシがどうこう言う筋合いはない。まあこの記事書いとる時点で結構言うてもうたけど。

結論:朽木、ある意味オトンの「聖地」

というわけで、告発のつもりで書き始めたこの記事、結局は「オトンの朽木愛、悪いことちゃうやん」いう着地になってもうた。デカルトも「我思う、故に我あり」言うとる通り、オトンにとっては「我朽木で焚き火す、故に我あり」なんやろう。

次はどこ行くん、って聞いたら、多分また「朽木」って返ってくる気がする。ワシもそろそろその答え、諦めて受け入れることにするわ。

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