砂浜に埋まった車と、そこから始まった縁。~京丹後・久美浜~

キャンプ

どうも、オトンです。

今回の舞台は京丹後の久美浜。せやけどこの日の主役は景色やのうて、ワシの盛大な勘違いやった。

この空と海、なかなか良い雰囲気やろ。せやけどこの穏やかな景色の裏で、ワシは人生でも指折りの恥ずかしい失態をやらかしとった。

「まだ四駆やから大丈夫」という、過去の亡霊

事の発端は単純明快や。車を替えたことを、頭のどこかで忘れとった。

以前乗っとった初代のN-VAN、あれは山吹色の四駆やった。多少の砂地くらいなら、涼しい顔で走破してくれる頼もしいやつやった。せやのに今乗っとるのはグレーの二代目、しかも二駆。四駆から二駆に変わっとるいう重大な事実を、体が覚えとる感覚の方が上書きされんかった。

孔子は「過ちて改めざる、是を過ちと謂う」って言うたらしいけど、ワシの場合は過ちに気づく前の話や。過ちを過ちと認識すらしてへんかった。哲学以前の問題やな。

砂浜に乗り入れた瞬間、いつもの調子でアクセルを踏んだ。せやのに車輪はむなしく空転するだけ。タイヤが砂に食い込んでいく感触と共に、頭の中で「あ、二駆やった」という記憶がようやく蘇ってきた。気づくの遅すぎるやろ、自分。

見事なスタック、そして絶望

車体はどんどん砂に沈んでいく。アクセル踏めば踏むほど、状況は悪化するばかり。デカルトは「我思う、故に我あり」言うたけど、この時のワシは「我埋まる、故に我あり」やった。埋まったことでしか自分の存在を証明できん状況、なかなか情けない話やで。

一人でどうにかしようと悪戦苦闘するも、当然ながら事態は好転せん。むしろタイヤの周りに砂の壁ができて、より一層絶望的な光景になっていった。この時ほど、四駆時代の自分を懐かしく思ったことはない。

見知らぬ救世主たち

途方に暮れかけとったところに、近くで大勢のグループでキャンプしとった方々が声をかけてくれた。「大丈夫ですか、手伝いましょか」と。

正直、この瞬間の安堵感いうたらなかった。孟子は「惻隠の心は仁の端なり」って言うたらしい。他人の苦境を見過ごせん心こそが、思いやりの始まりやという意味らしいけど、まさにこの日出会った方々がそれを体現しとった。見ず知らずのオッサンが砂浜で車を埋めて困っとるだけやのに、当たり前のように手を貸してくれる。

大勢で車体を押してもらいながら、なんとか脱出に成功。砂まみれになりながら頭を下げるワシに、皆さん笑顔で「よくあることですよ」って言うてくれた。よくあることちゃうやろ、これワシの完全な準備不足やろ、と心の中でツッコミながらも、その優しさに救われたわ。

事件から生まれた、思わぬ縁

普通ならここで「恥ずかしい思い出」として終わる話や。せやけどこの日助けてもろたことがきっかけで、その後もその方々と連絡を取り合うようになり、今でも仲良くさせてもろとる

老子は「禍福は糾える縄の如し」って言うたらしい。災いと幸福は縒り合わさった縄のように、表裏一体でくるくる入れ替わるという意味らしいが、まさにこれや。砂浜でスタックするいう、どう考えても「禍」でしかない出来事が、思わぬ人との繋がりという「福」に転じた。

人生、ホンマに何が起こるかわからん。二駆になったことを忘れて調子に乗った結果が、まさかその後の人間関係の財産になるとは、あの時砂に埋まっとった自分に教えてやりたいくらいや。

久美浜が教えてくれたこと

車の切り替えを忘れるいう、なんとも間抜けな失敗から始まったこの日。せやけどその失敗のおかげで得たものは、失敗の恥ずかしさを補って余りあるもんやった。

これからも、きっと色んな場所で似たような失敗をやらかすんやろう。せやけどその度に、この久美浜での出来事を思い出して、「まあ、これも何かのご縁のきっかけかもしれん」くらいの気持ちで乗り越えていこうと思う。

ちなみに、今の車が二駆やいうことは、もう二度と忘れんようにしっかり肝に銘じておいた。

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