ローマは一日にして成らず、とは古代からよく言われる言葉だが、自分の場合は「丹波篠山も一日にして馴染みの地とはならず」といったところだろうか。いや、正確には、もう十分すぎるほど馴染んでしまった。今回で丹波篠山への訪問が何度目になるのか、正直自分でも数えるのをやめてしまった。
杉木立の参道、こんな道が近所にあってええんか

まずこの道を見てほしい。両脇にすっと伸びる杉の木立、その奥まで続く一本道。まるでどこかの神社の参道のような佇まいだが、これが丹波篠山の中にごく自然に存在している。ドイツの詩人ゲーテは「自然は最良の教師である」と言ったらしい(この手の引用、毎回正確な出典までは自信が持てないので、話半分に聞いてほしい)。この一本道を歩くだけで、都会の喧騒がすっと抜けていく感覚がある。
色づき始めた木々、季節はもう秋の真ん中

11月に入って、木々もいよいよ本気を出してきた。緑一色やった森が、ところどころオレンジや黄色に染まり始めている。青空とのコントラストがまた美しく、これは何度この場所に通っていても飽きが来ない理由の一つやと思う。

こちらは東屋を背景にした一枚。手前の紅葉した木が、周囲の常緑の杉たちの中でひときわ目立っている。まるで森の中に一輪だけ挿された、季節の花のようだ。中国の詩人、陶淵明あたりが好みそうな風景だと勝手に思っているが、これも自分の勝手な想像なので鵜呑みにしないでほしい。
いつもの相棒、いつもの場所で

愛車もすっかりこの場所に馴染んでしまった感がある。杉林を背景に、東屋の脇にちょこんと停まっている姿は、もう「常連」と呼んでも差し支えないレベルだと思う。何度も同じ場所に通うことについて、賛否あるかもしれないが、自分はこの「通い続けることで見えてくる細部の違い」を楽しむタイプだと、今回改めて自覚した。
静かに燃える炎、小さな焚き火の時間

そして今回、地味に気に入っているのがこれ。小さな筒状のストーブから、思いのほか勢いよく炎が立ち上っている。手前には予備のパーツも置いてあって、ちょっとした準備の跡がうかがえる。
大掛かりな焚き火台やなく、この手のひらサイズのストーブでも、これだけの炎を生み出せるというのは、なかなか痛快なもんがある。哲学者バシュラールは「小さな炎ほど、見る者の想像力をかき立てる」と語ったらしい(これもまた出典の正確性は保証しかねるが、この日の炎を見ていると妙に納得させられる言葉ではあった)。
まとめ:通い続けることの意味
杉並木の参道、色づき始めた木々、馴染みの東屋に停まる愛車、そして小さく燃える炎。今回の丹波篠山も、これまでとはまた違う季節の顔を見せてくれた。
同じ場所に何度も足を運ぶというのは、一見すると代わり映えのない行為に思えるかもしれない。せやけど実際には、季節が変わるたびに、光の角度が変わるたびに、まったく違う表情に出会える。「もはや我が家」というのは冗談半分の言葉やったはずやが、ここまで通っていると、あながち間違いでもない気がしてきている。


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